2008年8月26日火曜日

線路は続くよ何処までも・・・

「夏草や兵どもが夢の跡・・・」

と書きましたが画像はけっして戦場跡地の画像ではありません・・・

画像は工房のすぐ隣の放置地で、つい四年前までここには名鉄三河線の軌道が設かれていました、その跡地の画像です。木工とは全く関係はないんですが、「名鉄電車も見放した・・・」と書いたんで、いきなりの寄り道です。まさに「見放された」がぴったりの画像でしょう?その最たる理由というか動かぬ証拠ですね・・・?(それにしても戦場跡と言っても通りそうな程の荒地ですね?)

この線路は末期にはマニアたちには海線と呼ばれていました、沿線に住む一部の人たちにとってはかけがえのない交通手段でした。一部というのは移動に自家用車を使えない子供たち(特に高校生)や運転免許証を持っていない老人たちです。田舎者は何処へ行くにもすぐにマイカーを使っていますんで確かに電車に乗る機会は稀です。当たり前です自分ちの玄関から10歩も歩けば車があって目的地の建物のすぐ近くに車を停めてドアから降りれば良いんですから・・・沢山の荷物を持つ時なんかは特に車ですね・・・今では・・・

けど自分等がそんな事を繰り返して来た結果があの荒地だもんで文句を言う権利は何処にもありません・・・が自分が高校生だった頃はグ○コのレスポールを抱えてよくこの線を使いました、時には60Wのギターアンプやら非度い時にはドラムセットを5人くらいで分担して手荷物で乗車した事もありました・・・

マニア間で「海線」と呼ばれていたと書いたんですが、それはここが碧南駅から吉良吉田駅間の往復路線になってしまったからでそれ以前は知立駅まで行っていました。さらにその前までは時刻表に書いてある行き先駅名はすべて「西中金」でした。グ○コのレスポールを抱えながら「西中金」ってどんなところなんだろう?刈谷とか高浜とかに向かう電車に乗りながらたまにそんな事も考えたりしていました。

毎年夏休みになると想い出すんですが高校の2年か3年か忘れてしまったんですが兎に角、時間がたっぷりあったある夏休みに悪友と目的もなしに刈谷方面へとこの電車に乗ったんです。で特別何処へ行く、何処で降りると決めてなかったので一度終着の「西中金」まで行ってみようとなりました。

西中金は豊田のさらに矢作川上流とは知っていましたんですが、矢作川の最上流に架かる鉄橋(最下流に架かる鉄橋も名鉄三河線でした)や窓から手を出すと葉っぱに触れそうな程の林の中の最徐行運転、三河線唯一のトンネルなどに、ひねくれてた高校生はすこぶる感動してしまったのを憶えています。


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